敬体文と常体文

 先日、相互リンクさせて頂いている「オトコでも読める少女漫画」にて、以下のような記事があったので、ちょっと尻馬に乗ってコメントさせて頂こうと思います。

http://idukidiary.blog6.fc2.com/blog-entry-488.html

 ウチも少女漫画を扱うことが多いので、色々と耳が痛い話なのですが、基本的には私もいづきさんと同意見です。特に「変態だという自覚」が必要だという御意見は、全くもってその通りだなぁ、と。
 で、まぁ、あえて一つコメントしておくべき点として、「文体」についての私のスタンスを少々語らせてもらおうかと。

 私の場合、「レビュー記事」だけは常体文(である調)で、その他の記事は敬体文(ですます調)で書くことにしている訳ですが、確かに常体文での批評は「上から目線」な印象を与えるかもしれませんし、特に(今回のような)批判的意見が多く含まれる文章の場合は、どうしてもキツい言い方になってしまいます。
 にも関わらず、私があえて「常体文」にこだわっているのは、(職業柄の問題もありますが)「レビュー(書評)や評論は常体文であるべき」という偏見が私の中にあるからです。「感想」や「紹介」ならば敬体文でも構わないと思うのですが、なんとなく「敬体文のレビュー」には抵抗があるんですよね。
 なぜそう感じるのかというと、私の中で「敬体文」は、基本的に「話し言葉」なんですよ。少なくとも「フォーマルな書き言葉」ではないと思うんです。たとえば、大学のゼミで報告する時に、レジュメには常体文で書いてあるのに、読み上げる時は敬体文で読んだりしますよね? 多分、企業でのプレゼンなどの際も同じではないかと思うのですが、一般に「フォーマルな場での書き言葉」は「常体文」であり、読み上げる時はそれを敬体文に変換して読むのが、一般的な作法なのではないでしょうか?
 しかし、だからと言って「書き言葉」で「敬体文」を使ってはならない、という訳ではないと思うのです(現に、私もこうして使ってます)。「敬体文」が口語的な文体であるからこそ、あえて敬体文を用いて書くことで「読者に直接語りかけているような印象」を与えることが出来る訳で、私を含めた多くの人々は、そのような効果を期待して敬体文を用いているのではないかと。
 そして、(これは完全に私の中だけの言葉の定義の問題ですが)「感想」や「紹介」は「語るもの」で、「レビュー」や「評論」は「書くもの」だと思うんですよ。前者は「本来ならば口頭で語りたいけど、より多くの人々に語りかけるために、あえて文字化した文章」であるのに対して、後者は基本的に「最初から『文字で伝えること』を前提とした文章」として私の中では位置づけられています。だからこそ、「レビュー」と銘打つ場合は「常体文」で書くのがオーソドックスな作法なのではないかと思う訳です。
 無論、これはあくまで私個人のこだわりなので、敬体文で「レビュー」を書くスタイルを全面否定しているつもりはありません。実際、いづきさんも述べている通り、確かに敬体文の方が柔らかな印象を与えますし、余計なカドを立てずに読んでもらえるという効果もあるでしょう。ただ、敬体文はどうしても文章が必要以上に長くなってしまうんですよね。この辺は、どっちを優先するかは著者のスタイルということになるでしょう。

 で、こうやって長々と「雑記という名の持論」を「敬体文」で書くのも、本当はあまり適切ではないんですよね(簡潔性を求めるという観点においては)。にも関わらず、あえてこっちは敬体文で書くことにしてるのは、「より普遍的な問題を取り扱う文章であるが故に、『上から目線』で書いてるように思われることへの危惧感がより強いから」という、全くもって非論理的な理由だったりします。
 また、たまに私も(文体を和らげるために)あえてレビューの方にも口語体表現を混ぜたりしてるんですよね(今回のレビューでも「〜ね」「〜なぁ」といった接尾語を用いてますし)。その意味では、実は私もきちんと使い分けられてる訳ではないですね、はい。